▶コンサート情報
・オーケストラ・ニッポニカ、野平一郎(指揮)、阪田知樹(ピアノ)
・第41回演奏会(設立20周年記念連続演奏会II)
・2022年12月11日(土)@紀尾井ホール
▶曲目
▷プログラム
・藤家渓子:思い出す ひとびとのしぐさを(1994)
・藤倉大:オーケストラのための「トーカール・イ・ルチャール」(2010/2011)
・糀場登美子:未風化の7つの横顔——ピアノとオーケストラの為に(2005)
・諸井三郎:交響曲第2番(1938)
(アンコールなし)
▶感想
・オーケストラ・ニッポニカのクラウドファンディングの返礼品で選んだチケット。クラファンのページによれば、日本人の作曲家の作品には譜面探しや譜面の修復や写譜などの作業を経て初めて演奏可能になるものも多いらしい。確かに音楽史を紐解いても、日本人の作曲家の作品は「名前は聞くけれど演奏を聴く機会や音源がない」という場面が珍しくない気がする。オーケストラ・ニッポニカの演奏を聴くのは2019年の『ニホンザル・スキトオリメ』以来だけれど、あのオペラも半世紀ぶりの再演だったそうだ。
・一曲目の「思い出す ひとびとのしぐさを」はかなり好みの曲で、この一曲で「聴きに来てよかった」と思った。各々の楽器の音色(と沈黙)が即興的に次々と飛び込んでくるようでいて、お互いに対するリズムの繋ぎ方や応え方、音の重なり方は終始明るくかつ心地よい調和や脈絡が感じられる楽曲だった。プログラムを見てみると、このタイトルはチリの詩人ガブリエラ・ミストラルの詩から来ているとのことで、プログラムにも詩の全文が引用されていた(引用元は田村さと子編訳『ガブリエラ・ミストラル詩集』)。ちなみにこのプログラムによれば、この楽曲は指揮者の岩城宏之さんの「21世紀へのメッセージ」という委嘱シリーズの一曲で、このシリーズに参加した頃の藤家さんはちょうどミストラルに寄せた作品を書いていた時期だったそうだ。聴いた後で詩を読んでみたところ、ミストラルの詩は故郷の自然と生活を水のイメージが貫いていく瑞々しい郷愁(あるいは渇き)をよく表していて、藤家さんの楽曲に通じる活力を感じる一篇だった。また、他の楽器の音が落ち着いてパーカッションのみになる場面がたまにあったが、あれも詩の連の区切りか詩の文言を反映した展開だったのかもしれない。機会があれば、詩を読みながらもう一度聴いてみたい一曲だった。
・二曲目の「トーカール・イ・ルチャール」はベネズエラの社会的な音楽教育プロジェクト「エル・システマ」に寄せられた一曲で、曲名はプロジェクト立ち上げの標語で「奏でよ、そして闘え」(Tocar y Luchar)という意味らしい。こちらも各々の楽器が自由に絡み合うタイプの楽曲だが、「思い出す ひとびとのしぐさを」にあった息を合わせた共鳴とはまた違うタイプの調和、言わば好き勝手に動き回る音が時おり一つに折り合わされるように生成される気まぐれな調和が聞こえてきた。特にヴァイオリンなどの弦楽器が絨毯を広げるように持続音を提示し、管楽器がやんちゃに跳ね回っているような場面がちらほらあって印象的だった。パンフレットを読んでみると、いろいろな背景をもった子供たちが集まって一つの音楽に参加するエル・システマを、音の群れからなる一つの音楽や旋律に例えているようなことが書いてあって何となく納得した。
・先の二曲が生命を感じさせる明るめの楽曲だとすると、残る二曲はいずれも戦争と結びついた楽曲となっていた。三曲目の「未風化の7つの横顔」はピアノ協奏曲のような編成で演奏される楽曲で、全体としてはチューブラー・ベルとピアノが鐘の音を鳴らした後に、ひと連なりになった七つの楽章が奏でられ、また鐘の音に帰ってくるという構成。プログラムによると、広島出身の糀場さんが20年前の「広島レクイレム」を経て、再び広島に捧げた楽曲とのこと。広島の楽曲と言っても、平和や調和が奪われるというドラマ風の展開ではなく、終始不穏な動機のぶつかり合いに貫かれた(言わば)一面灰色の追想のような楽曲になっている。七つの顔といっても楽章間の区切りはあるような無いような感じで、そもそも七人の顔の持ち主は七人の個人なのか、広島のあの場所にいた人々全員なのか、あるいは広島という土地そのものなのか、という問いすら浮かんでくるような鑑賞体験だった。一番印象的だったのは最後に鐘の音に帰ってくる場面で、「実はあの鐘の音は始めの鐘の音の続きなんじゃないか」という感覚、鐘の音の響きと響きの隙間に時間の巻物のように歴史的事件が挿入され繰り広げられたかのような不思議な時間間隔を覚えた。また、思い違いかもしれないが、前半で時計のようにチクタク音がした場面があり、原爆で止まった時計や平和監視の時計を連想したことも記しておく。
・休憩を挟んで最後は諸井三郎の交響曲第2番。プログラムを見てみると、この交響曲はもともと構想されていたものが日本の開戦を受けて根底から書き換えられたものとのこと。とはいえ、この交響曲は後の悲劇の予言というよりは1938年時点での(諸井の言葉を借りるなら)「重大性の予感」それ自体を絶対音楽的に再構成したような楽曲に感じられた。プログラムによれば、諸井はドイツ留学時代にナチスの政権掌握の流れを直接目撃していたらしく、戦後のインタビューからの引用にはその時のドイツにおける芸術の抑圧や、戦後ドイツの希望としてのシュトックハウゼンの電子音楽への言及が見受けられる。とはいえ、全体としては三楽章を通して主題の展開と統一という作業を理知的に貫徹しているような作品になっていて、(当たり前といえば当たり前かもしれないが)同じ大戦に関わる音楽といっても人類の行き詰まりや鎮魂を強く連想させるタイプの戦後音楽とは別のジャンルの音楽に感じられた。第一楽章と第二楽章はそれぞれ独自の主題を展開している一方で、第三楽章の主題はところどころ先の二つの楽章を掛け合わせたものにも聞こえた。特に第三楽章は序盤に一区切り入った後にノンストップで音楽が展開する結構長い楽章だったのが印象的で、体感では第一・第二楽章が前半部、第三楽章が後半部という感じだった。一番印象に残ったのは第二楽章。こちらはプログラムにある通りわかりやすい五部構成になっており、一番盛り上がる中間部を挟む二つ目・四つ目の部には抒情的で美しい旋律が登場するのだが、この旋律がチェロや管楽器の間で受け渡されていく様子がとても良かった。
・それにしても、今回貰ったプログラムは作曲家のコメントや楽団からの解説(主題の譜例まで出てくる!)がついている上に、別冊で過去の詳しい演奏記録もついてきて本当に充実していた。自分の感じたものをまた別の視点で咀嚼する機会を与えてくれるありがたい付録で、あらためてオーケストラ・ニッポニカは大事な活動をしているんだなあと思った。また来年も演奏を聴きに行けたらと思う。